H29年度視察研修(鹿児島)

平成29年9月24日~25日、鹿児島の西南戦争戦跡や資料館などを巡る会員研修を行いました。


西郷南洲顕彰館

鹿児島市立西郷南洲顕彰館の外観

 

 

 

 

西郷南洲顕彰館の内部

 

 西郷南洲が残した墨跡や衣服、遺品などを展示。

明治10年2月、率兵上京の際に大山県令に提出した「今般政府へ尋問の筋有之」の文書が展示されていました。

 徳永館長に丁寧にご案内いただきました。

 


南洲墓地

南洲墓地は 西郷南洲顕彰館の隣にあります。

訪れた9月24日は、140年前に城山で西南戦争が終結した日。すなわち西郷さん等の命日でした。

鹿児島県指定史跡

 

 

薩軍兵士が眠る墓地

 

 2000人以上の薩軍兵士が埋葬されています。

中央にある西郷さんの墓を囲むように、別府晋介、桐野利秋、村田新八らの墓が建てられていました。

西郷隆盛の墓

 

 中央にあるのが西郷隆盛の墓

庄内藩士・伴兼之の墓

 庄内藩士(山形県)伴 兼之は明治10年3月20日、植木にて戦没(20歳)。

「明治8年他藩兵士ながら特に私学校入学を許された。西南の役が起こると帰国するよう説得されたが、敢えて従軍した」(説明板)

 七本官軍墓地には、伴 兼之の兄で、政府軍として参戦し植木で戦死した鱸成信(すずきしげのぶ)の墓(明治10年4月6日没)があります。

 兄弟が敵味方に分かれて戦っています。 

 

七本官軍墓地にある、伴兼之の兄・鱸成信の墓

【参考】植木七本官軍墓地にある 鱸成信(すずきしげのぶ)の墓

 西南戦争では、西郷さんが盟友・大久保利通や弟・西郷従道と袂を分かったように、この鱸・伴兄弟も敵味方に分かれて戦いました。

 西南戦争は、兄弟や友人が敵味方に分かれて戦った悲運な戦いでもありました。

 

 

常夜灯

「この常夜灯は、西郷隆盛と勝海舟との会談により、江戸城が無血開城され、江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のため、昭和14年5月当時の東京市によって寄贈建立されたもので、花棚石(けだないし、凝灰岩)でできています。

 江戸城の無血開城には、薩摩藩から第13代将軍徳川家定の御台所となった天璋院(篤姫)も西郷隆盛に徳川家存続の嘆願書を送るなど、大きな役割を果たしたとされています」(説明板)

 

 勝海舟歌碑

 常夜灯の脇に設置されています。

「ぬれぎぬを

 干そうともせず

 子供らが

 なすがまにまに

 果てし君かな」

    勝 海舟


西郷隆盛洞窟(城山)

「1877年(明治10)9月24日、午前4時政府軍の城山総攻撃が始まりました。城山に立てこもる薩軍兵士は、わずか300余。これを囲む政府軍は、何重もの柵をめぐらし、その数4万。死を決した西郷は、夜明けを待って、5日間すごしたこの洞窟を出ました。桐野利秋、別府晋介、村田新八、池上四郎といった私学校の幹部たちも一緒です。この日の西郷の出立ちは妻のイトが縫った縞の単衣に白い兵児帯。ゆっくりと岩崎谷を下ります。その時流弾が西郷の腰に命中。別府の介錯をあおいで49歳の生涯を閉じたのです。(次項につづく)(説明板)

西郷隆盛洞窟

(つづき)西南戦争というのは、不平士族の反乱のあいつぐ中、西郷を慕う私学校の生徒たちが、政府の挑発によって引き起こした暴動が始まりです。首謀者の引き渡しか全面戦争か、その結論を出したのは「おはんらにやった命」という西郷の一言でした。2月15日、ついに挙兵。熊本で政府軍と激しい攻防をくりかえすも、近代兵器の前に敗退。7ヶ月にわたる大乱の最後を、西郷は故山城山で迎えたのです」(説明板)


原口泉氏記念講演会

西郷隆盛公没後140年・明治維新150年記念

原口 泉講演会に参加しました。

 

演題「世界の偉人 西郷南洲翁~道義の人」

   講師【原口 泉氏】志學館大学教授、

           鹿児島県立図書館長

   主催 西郷隆盛公奉賛会

   会場 城山観光ホテル

      


偉人を生んだ加治屋町

 9月25日、西郷隆盛・大久保利通らの生誕の地を訪れました。

多くの偉人を生んだ加治屋町。歩いて回れるエリアに偉人生誕の碑が建っていました。

 

西郷隆盛

大久保利通

伊地知正治

吉井友実

篠原国幹

東郷平八郎

大山巌

村田新八

 

 

 

 

 

郷中教育

 偉人を輩出した「郷中(ごじゅう)教育」制度

西郷隆盛生誕の地

「『大きくたたけば大きく鳴る。小さくたたけば小さく鳴る』と土佐の坂本龍馬を驚かせた薩摩の『ウドメサア』(目の大きな人) 西郷隆盛の器量の大きさは、彼が生まれ育った下加治屋町の郷中教育によって培われたといわれています。

 1827年(文政10)西郷は下級武士の家の7人兄弟の長男として誕生(海軍大臣を勤めた従道は三男)貧しい生活の中で藩校造士館に通い、次第に下加治屋町郷中の少年達のリーダーとして頭角を現します。鹿児島の町には独特の若者組織があり、町毎に区切られた郷中という単位で少年たちが集まり、厳しくしつけられるのです。

 西郷は13歳のとき、右腕を負傷し武芸はあきらめましたが、その分勉学に励み、二才頭(にせがしら)として郷中の仲間の人望を集めました。西郷の指導者としての有能さは、この郷中から多くの偉人が育ったことからもうかがえます。

 17歳で郡方書役助(こおりがたかきやくすけ)という地方役人となり、農村を回り、農政についての意見をまとめました。これが後に英明藩主といわれた島津斉彬の目にとまり、やがて日本を舞台に活躍する足掛かりとなったのです」(説明板)

大久保利通生誕の地

「大久保内務卿が庁舎に入ると、雑談はやみ、あたりは水を打ったように静まり返った・・・子ぼんのうな私生活とは裏腹に、政治家としての大久保利通は厳格さにも凄味があったといわれています。幕末激動期に西郷との絶妙のコンビで明治維新を成し遂げ、新政府樹立後は天才的な政治手腕で近代国家の建設に着手。親友西郷と真向から対立しても、その信念を貫き通しました。

 大久保は、1830年(天保元)下級役人ながら琉球館付役を勤め、学識豊かな利世(としよ・子老)を父として高麗町で生まれ、まもなくこの下加治屋町に移りました。3つ年上の西郷とは薩摩独特の郷中教育の中で、兄弟以上の信頼で結ばれていました。

 15歳で記録所書役助(かきやくすけ)として出仕。お由羅騒動では、父が遠島、利通も謹慎となりどん底の暮らしを体験します。その後、島津斉彬が藩主となり復活。斉彬亡きあとも、藩の実権を握った久光に信頼され、精忠組のリーダーとして薩摩藩を討幕の中心勢力に育てあげたのです。

 西郷を嫌った久光を説得し、流刑地から呼び戻したのも大久保の力だといわれています」(説明板)

大久保利通の銅像

 

フロックコートを着た大久保利通のモニュメント。西郷隆盛、木戸孝允と並んで明治維新の3傑と言われた人物。

没後100年を記念して昭和54年(1979)9月に建立されました。本体4.3m、台座からの高さは9.7m。

 

大久保の馬車夫と馬

 

 内務卿大久保利通は明治11年5月14日、馬車で出勤途上、紀尾井町(現東京都千代田区)で石川県士族らに襲撃されて死去。西郷さんの死去からわずか8ヶ月後のことでした。

 銅像の足元(裏側)には、大久保と運命を共にした馬車夫と馬が小さく刻まれていました。


維新ふるさと館

 

 甲突川のほとりに建てられた、地下1階、地上1階建ての維新ふるさと館。

鹿児島の歴史、とりわけ幕末から維新までの足跡を、映像や資料で丹念に辿ることができます。

維新体感ホール

 

 西南戦争を分かりやすく再現した「維新体感ホール」、薩摩の先人が語りかけてきます。


西郷隆盛銅像

 

没後50年祭記念として、昭和12年(1937)5月23日に完成。わが国初の陸軍大将の制服姿で、城山を背景に立つ高さ8mのモニュメントです。作者は渋谷の忠犬ハチ公の製作者・安藤照。

 


私学校跡

 私学校跡

私学校の銃弾跡

 私学校の石垣に残る無数の銃弾跡


仙巌園(せんがんえん)

国指定名勝文化財 仙巌園(せんがんえん)

通称は磯庭園

 

鉄製150ポンド砲(複製)

鹿児島沿岸に配備されていた最大級の要塞砲を復元。約68kgの鉄製の丸い弾を約3km飛ばす威力がありました。

 奥に見えるのは、実物の4分の1スケールの反射炉(模型)、大砲を鋳造するために鉄を溶かした西洋式施設。

 

 

尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)

 

幕末、島津藩主斉彬はこの地に東洋最大の工場群「集成館」を築きました。欧米列強による植民地化を恐れ、鉄砲、大砲、造船、紡績、薩摩切子などの研究・製造を行い、写真、電信、ガス灯などの実験・研究も盛んに行いました。

 2015年、「明治日本の産業革命遺産」として、世界文化遺産に登録されました。

 

仙巌園の庭園

 仙巌園の庭園から桜島を望む。

1958年(万治元)、島津家19代光久はこの地に別邸を築造。桜島を築山に、錦江湾を池に見立ててつくられた雄大な庭園です。

 28代斉彬はこの地を愛し、篤姫、勝海舟、グラバー、ロシア皇帝ニコライ2世など、多くの人がここを訪れています。

示現流(自顕流)

 示現流(自顕流)の体験

示現流は、「一の太刀を疑わず」「二の太刀要らず」といわれ、初太刀から勝負のすべてをかけて切りつける「先手必勝」の剣法です。

重い木刀で振り下ろしを体験しました。

仙巌園の松

 仙巌園の見事な松の木


城山で記念撮影

 9月24日、城山展望台で記念撮影

西南戦争最後の激戦地、標高は107m。眼下に市街地が広がっています。

 

 

平成29年9月24日~25日の研修では、最後の戦場となった城山などの戦跡や、多くの偉人を生んだ鹿児島の郷中教育、強く豊かな国を目指した藩主島津斉彬の開明的な近代化策などに触れることができました。

西南戦争は多くの若者を失った悲劇でしたが、わが国近代化の礎として先人を敬い、大切に語り継ごうとする地元の使命感と誇りを感じた研修でした。