H28年度視察研修(八代)

平成28年11月24日、八代市の西南戦争史跡などを巡る視察研修を行いました。 

八代神社・妙見宮

 八代神社・妙見宮の樟(西南戦争当時の弾痕)


宗覚寺(そうかくじ、薩軍本陣跡)

 

 宗覚寺(そうかくじ、薩軍本陣跡) 

山門に刀傷が残っています。


春光寺(激戦地)

明治10年4月12日の激戦で薩軍はほゞ壊滅。銃弾の貫通跡が残っています。

銃弾の貫通跡

 

 光寺 

銃弾の貫通跡


萩原堤・宮崎八郎戦死の地

 

碑名は司馬遼太郎氏によるもの

碑文「此処萩原堤一帯は明治十年西南の役に於て田原坂と共に多数の死傷者が出た激戦地である。当時、熊本協同隊の参謀長であった宮崎八郎は薩軍を援助して奮戦したが四月六日の払暁、遂に此の地で戦没した。時に弱冠二十七歳であった」

 


光徳寺(官軍(衝背軍)本陣跡)

「明治10年3月19日、高島鞆之助(とものすけ)大佐率いる別働第2旅団(のち別働第1旅団)の一部は須口村(現二見洲口町)に上陸し、鳩山に陣取る薩摩軍と戦った。これが衝背軍の最初の戦いである。高島大佐らは海路八代に上陸し、ここ光徳寺を本陣とした。以後、衝背軍は日奈久、八代から数字に亘り上陸して、八代郡下に侵入した薩摩軍と戦いつつ北上した。この本陣は4月1日に松橋に移るまで存在したようである。衝背軍総指揮の黒田清隆参軍、大山巌別働第5旅団長、山県有朋参軍も滞在している」(標柱より)


日奈久の戦跡

「官軍上陸之地」石碑

 

 西南の役と日奈久「明治10年3月西郷隆盛は1万5千の兵をひきいて熊本城に迫ったが当時日奈久は薩軍の勢力下にあり糧食基地であった。3月19日日奈久南方洲口に官軍数百の兵が上陸、その援護に日奈久に向って艦砲射撃。これと前後して数隻のボートにより日奈久港に上陸を敢行したとき銃火が交えられた。その時の官軍の銃弾のあとが海岸に面していた八代屋2階の柱に痕跡をとどめている」(石碑より)

八代屋旅館

 

「明治10年の営業記録が残っている日奈久地区では最も古い旅館。旅館の柱には、西南戦争時の艦砲射撃の弾痕が残っており、日奈久をめぐる戦闘の激しさをみることができます」(説明板より)

洲口の海岸

日奈久の南方に当たる洲口の海岸 

明治10年3月19日、官軍衝背軍の上陸地点


八代城跡

 八代城跡にも足を伸ばしました。

「大天守は東西10間、南北11間を測る外観5層内観6階(地下部分を含む)でした。屋根の両棟には鯱がのって威容を誇っていましたが、築城から53年後の寛文12年(1672)2月19日の落雷による火事で焼失してしまい、その後再建されることはありませんでした」(標柱より)


全員で記念撮影

光徳寺で記念撮影

今回の八代研修では、やつしろ観光ガイド協会の中村会長様等にご案内していただきました。

 

衝背軍(しょうはいぐん)という背面軍の八代上陸によって、薩軍は薩摩からの募兵補給の道が断たれ、退路も失うことになりました。