令和6年11月19日~20日、日赤の提唱者・佐野常民や大隈重信の記念館、佐賀の乱の史跡などを巡る会員研修を行いました。
佐賀市内にある明治日本の産業革命遺産の一つ「三重津海軍所跡」と日本赤十字の提唱者である「佐野常民」の歴史館、佐嘉(さが)神社、大隈重信記念館、佐賀の乱記念碑の視察研修を行いました。
歴史館は佐賀市川副町の有明沿岸道路沿いにありました。日本の近代造船の礎となった「三重津海軍所跡」と日本赤十字の提唱者である「佐野常民」を紹介するコーナーが一つの建物に設けられていました。
海軍所は幕末佐賀藩の洋式海軍の拠点として創設され、佐野常民は海軍所の発展に尽力し、国産初の蒸気船「凌風丸(りょうふうまる)」の建造にも指導力を発揮しています。
海軍所跡は「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つの遺産群として登録されています。
歴史館の紹介
一階が「三重津海軍所跡」、二階が「佐野常民」の展示室となっています。
佐野常民は佐賀七賢人の一人。藩医佐野家の養子となり藩校弘道館では学才を発揮、その後、大坂や江戸で緒方洪庵、伊東玄朴らの門弟となって蘭学、医学などの学識を広めました。31歳の時に佐賀藩精煉方において、さまざまな理化学研究の指揮をとり、蒸気船・蒸気車の雛形、電信機の製作を行いました。(歴史館HPより)
博愛社の誕生
西南戦争での苛烈な状況は、政府の元老院議官の佐野常民と大給恒(おぎゅうゆずる)のもとにももたらされました。日本にもヨーロッパの赤十字活動のような救護組織が必要であると感じた常民らは、博愛社の設立を政府に願い出ますが一旦は不許可となりました。このため常民は、直接戦場である熊本に赴き、より戦場の悲惨な状況を知る政府軍の征討総督有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王に直接嘆願し博愛社の設立許可を得ました。(歴史館展示より)
佐嘉神社。佐賀藩第十代藩主、鍋島直正公を祀る神社。境内には佐賀藩製造の鉄製150ポンド砲とアームストロング砲(いずれも復元)が設置されていました。
大隈重信は佐賀七賢人の一人。日本初の政党内閣をつくり、大蔵卿として活躍し、総理大臣に二度なった人です。鉄道の敷設、新通貨制度「円」の創設、郵便事業、太陽暦の採用など、日本の近代化の基礎を築くとともに、早稲田大学を創設するなど、教育にも力を注いでいます。
佐賀市内にある生家とその隣に建てられた大隈重信記念館を見学しました。
大隈重信記念館(国の登録有形文化財)。
生誕125周年を記念して、昭和42年に早稲田大学名誉教授今井兼次博士の設計により建てられました。
明治6年の政変
大隈重信は、西郷隆盛、板垣退助らの征韓論(後藤象二郎、副島種臣、江藤新平は賛成)に対しては、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、大木喬任とともに反対の立場をとりました。
明治30年、東京専門学校(のちに早稲田大学)得業式の送辞
得業式送辞
「諸君は数年勉強の結果、今日この名誉ある卒業証書を貰って初めて社会に出ていくが、諸君が向かう所には種々の敵がたくさんいる。
道徳の腐敗あるいは社会の元気の阻喪(そそう)などは最も恐るべき敵である。
この敵に向かって諸君は必ず失敗する。
成功があるかも知れないけれども、成功より失敗が多い。
失敗に落胆しなさるな、度々失敗するとそれで大切な経験を得る。
その経験によって成功をもって期さなければならない。
ところで、この複雑なる社会の大洋において、
航海の羅針盤となるのは学問である。
諸君は、その必要なる学問を修めたのである。」(展示資料より)
佐賀の乱は明治7(1874)年2月に佐賀で起こった、江藤新平、島義勇(しまよしたけ)をリーダーとする明治政府への反乱です。
最近では佐賀県がより中立的な意味の呼称として提唱していて、「佐賀戦争」とも呼ばれています。
万部島招魂場の由来
万部島招魂場は、明治七年二月に起きた佐賀の役において殉難陣没した二百十二人の御霊の祭祀所です。この中には明治政府の要人として司法制度の近代化に偉大な足跡を印した江藤新平初代司法卿、北海道開拓に際し札幌開府に貢献した島義勇開拓判官も共に戦った御霊に寄り添い鎮魂されています。
幕末、わが国では尊王攘夷が論争される中、慶応三年十二月王政復古の大号令により、明治政府が発足し、近代国家形成への改革が急速に進められていきました。当時、版籍奉還に続き廃藩置県と新政府が士族の特権を次々に剥奪し急進的に進める中央集権、また新政府を認めようとしない朝鮮国に対する不平不満が高まり、佐賀でも政府への抗議を強め「征韓党」や「憂国党」が結成されました。
その暴発を恐れ帰国した江藤や島は説得に努めましたが及ばず、江藤は「征韓党」、島は「憂国党」の党首に祭り上げられ、両党は合流して明治七年二月十六日挙兵に至りました。
激戦のすえ佐賀軍は敗れ、明治七年四月九日佐賀で臨時裁判が開かれ、同年四月十三日に江藤と島は、前年制定の新典にはない梟首に処せられました。
政府は当初戦没者の合葬は許さず、明治十八年に弔魂碑ならよいとなり、「征韓党」は佐賀城内西之御門南に、「憂国党」は川原小路に、両党成立の経緯もあり、それぞれの弔魂碑を建立しました。その後、明治二十二年二月十一日「大日本帝国憲法」発布にあたり「大赦令」が発布され、戦没者、除族された者の全部の罪障消滅との恩命に浴するところとなりました。
大正九年には、「征韓党」弔魂碑移設にあたり、旧佐賀十一代藩主鍋島直大公から鍋島家所有地の万部島への移転の御配慮を戴き、野口能毅佐賀市長から両党戦没者の合碑の提案もあり、直大公継嗣直映公に「明治七年戦死者諸君之碑」と御揮毫戴き、殉難陣没諸氏全員の名前を刻した石塔を建て合祀に至りました。例年、慰霊祭を江藤らが処刑された四月十三日に、平成二十六年からは組織の変更もあり一日早め四月十二日に、戦没者遺族をはじめ、公人、有識者各位のご参加を戴き執り行っています。(現地説明板)
意見交換会も研修の楽しみの一つです。史跡や歴史に関する興味は同じでも、それぞれの個性がにじむ、和やかな懇談の場でした。
朝からは冷え込みましたが、好天にも恵まれ、鹿島市にある祐徳稲荷神社、酒蔵「幸姫(さちひめ)」を見学しました。
日本三大稲荷の一つに数えられ商売繁昌、家運繁栄、大漁満足、交通安全等種々の祈願が絶えず、参拝者は年間300万人に達しています。御本殿、御神楽殿、楼門等総漆塗極彩色の宏壮華麗な偉容は、鎮西日光と称されています。(神社HPより)
酒蔵の見学、酒造の工程を教えていただきました。ただいま仕込みの準備中とのこと。試飲をさせていただいて、各自お気に入りのお酒をお土産に買い求めていました。
今回訪れた佐賀における西南戦争関連の施設は、戦争の負傷者を敵味方の区別なく救護する博愛社の設立に携わった「佐野常民」の歴史館、そして、明治7年の佐賀の乱の戦没者記念碑などです。実際に足を運んでみて感じたことは佐賀県では多くの偉人を輩出していることでした。
佐賀七賢人と呼ばれる人々がいます。鍋島直正(なおまさ、佐賀藩第十代藩主、島津斉彬とは従弟で、斉彬と並んで幕末の名君と評される)、 島義勇(よしたけ、北海道の開拓判官、佐賀の乱で没)、 佐野常民 (日赤創設)、副島種臣(外務卿)、 大木喬任(たかとう、初代文部卿)、 江藤新平(初代司法卿、佐賀の乱で没)、 大隈重信(大蔵卿、総理大臣)といった人々で、わが国の近代化に力を発揮しました。
また、佐賀駅から佐賀城に至る通りには、明治維新150年を記念して佐賀偉人25名のモニュメントが設置されています。上の七賢人のほか、 建築家の辰野金吾、菓子メーカーの創業者である森永太一郎、江崎利一 の銅像などもありました。
わが国の近代化を先導した佐賀県の力を実感するとともにに、偉人を顕彰する姿勢が印象に残った研修となりました。