↑令和6年4月24日更新
西南戦争激戦地・田原坂の史跡
西南戦争の戦没者慰霊塔 官軍・薩軍合わせて14,000余の戦没者名が刻まれています。
美少年像と戦争当時から残る大楠
祟烈碑(すうれつひ)
碑文の説明
鹿児島県は西海に於いて地最も広く、人最も勇なり。而して西郷隆盛名望世を蓋ふ。海内の人士其の進退を候し、以て安危と為すに至る。
明治十年二月隆盛反し熊本城を囲む。天皇震怒、兵を発して之れを討つ。熾仁総督の責に任ず。陸軍中将山県有朋、海軍中将川村純義参軍たり。(続きはこちら)
田原坂 眼鏡橋・一の坂~三の坂
旧薩摩藩士を中心とする士族が、明治新政府の専制的な政治に反対して起こした国内最後の内戦で、明治維新の総仕上げであった。
幕末維新期、武士の棟梁江戸幕府を倒して新しい時代を作ったのは、同じ武士たちだった。しかし、明治時代になると元武士たちは冷遇される。その理由は大きく経済的なものと武力の担い手の問題だった。明治新政府は急速に近代化を進め、世の中の仕組みを大きく変えた。徴兵令、廃刀令、秩禄処分などは新政府には必要だったが、士族たちは不満を増大させ、ついに破裂する。
1877(明治10)年2月19日に西郷隆盛率いる薩摩軍に征討令が発せられて戦争が始まり、同年9月24日鹿児島城山での西郷隆盛の自刃で幕を下ろした。約7か月に及ぶ戦いは、熊本、大分、宮崎、鹿児島の九州4県にまたがり、薩摩軍3万人、政府軍6万人が動員され、約14,000人の若者が命を落とした。小銃や大砲を中心とする本格的な近代戦で、物量、情報伝達、物資輸送の点で勝る政府軍が勝利した。
西南戦争は数百年続いた武士の時代の終わりを告げ、近代国家確立の礎となった戦いとして、日本の歴史の大きな転換点に位置づけられる重要な戦争である。(田原坂西南戦争資料館パンフより)
明治 6年 10月23日 |
西郷隆盛、征韓論に敗れ辞表提出 桐野、篠原ら西郷派士官辞職 |
11月10日 | 西郷、桐野とともに鹿児島へ |
明治 7年 2月 4日 |
「佐賀の乱」起こる |
明治 9年 10月24日 |
「神風連の乱」(熊本)起こる |
10月27日 | 「秋月の乱」(福岡)起こる |
10月28日 | 「萩の乱」(山口)起こる |
明治10年 1月29日 |
私学校党、鹿児島で暴挙 |
2月17日 | 西郷、桐野、村田ら鹿児島をたつ 兵13,000人 |
2月18日 | 政府軍乃木希典(陸軍少佐)第14連隊の一部を率いて熊本に向かう |
2月19日 | 鹿児島暴徒征討令 熊本城炎上 21日まで市街延焼 |
2月20日 |
薩軍の先鋒、別府晋介の2大隊川尻に入る 民権党 保田窪神社へ集結、熊本協同隊結成 |
2月22日 |
政府軍第14連隊、連隊旗を奪われる 薩軍、熊本城を攻撃 |
2月23日 |
政府軍第14連隊、木葉にて敗れる |
2月24日 |
山縣参軍、博多に到着 薩軍、熊本城強攻を中止、主力は山鹿、田原、木留に進出 |
2月25日 |
政府軍第1、第2旅団南関に入る 高瀬の戦い |
2月27日 |
薩軍三方より高瀬を強襲、西郷小兵衛戦死 乃木少佐負傷 |
3月 3日 |
政府軍、木葉・吉次に攻撃を開始 |
3月 4日 |
田原坂の攻撃開始、3月20日まで田原坂の戦い 薩軍1番大隊長篠原国幹、玉東町原倉六本楠で戦死 |
3月19日 |
高島鞆之助の別働第2旅団、船で日奈久に上陸 |
3月20日 |
政府軍、田原坂を占領 |
3月26日 |
薩軍、石塘口をせき止め、熊本城を水攻めにする |
4月 1日 |
政府軍、吉次・木留を占領 |
4月 8日 |
荻迫柿ノ木台場陥落 |
4月12日 |
政府軍、御船を占領、薩軍3番大隊長永山弥一郎戦死 |
4月14日 |
政府軍、熊本城入城 |
4月15日 |
薩軍、植木・荻迫・鐙田・三ノ岳より退去 |
4月20日 |
政府軍、御船で大勝 薩軍、矢部に退去、西郷らは人吉へ退去 |
5月28日 |
西郷、宮崎へ入る |
6月 1日 |
政府軍、人吉を占領 |
7月31日 |
政府軍、宮崎佐土原を占領 |
8月 2日 |
政府軍、高鍋を占領 |
8月14日 |
政府軍、延岡を占領 |
8月16日 |
西郷、解隊布告 |
9月 1日 |
西郷ら鹿児島に入る |
9月22日 |
城山で西郷の命による決死の抵抗 |
9月24日 |
政府軍、城山を総攻撃 西郷、桐野、村田ら戦死 西南戦争終結 |
(植木町・玉東町西南戦争遺跡群連携保存活用協議会「西南戦争ガイドブック」より)
明治10年(1877)2月17日、「政府へ尋問の筋有之」として鹿児島を発った薩軍は陸路を北上。2月22日には熊本鎮台が置かれた熊本城を攻撃するが落とすことができない。そんな中、征討令発令を受けて編成された政府軍第1・第2旅団は熊本鎮台救援のため南下。それを阻止すべく主力を山鹿、田原、吉次に置いた薩軍は、高瀬の戦い(2月25日~27日、玉名市)で敗れて退き、田原坂で政府軍を迎え撃つことになる。
田原坂は高瀬から熊本に通じ、大砲や荷馬車が通過できる唯一の道であり、薩軍はここに陣地を構えて、政府軍と対峙。3月4日、政府軍の総攻撃に始まり、3月20日までの17昼夜に亘る死闘を繰り広げた。
3月4日、田原坂下にある「豊岡眼鏡橋」から政府軍の総攻撃開始。熊本城は戦国武将加藤清正によって築かれ、田原坂は城北防備の要所として道を深く掘り込んだ凹道になっていた。薩軍は凹道の両側の土手上から、坂を駆け上がろうとする政府軍を攻撃。政府軍は比高差わずか60~70メートルの坂を攻略できなかった。
同日、政府軍は薩軍陣地・吉次峠を攻撃するが大敗。吉次峠の戦いで薩軍一番大隊長・篠原国幹は死亡。
3月7日、田原坂を落とせない政府軍は、田原坂西方の二俣台地を占領して砲台を築き、田原の丘西方の薩軍陣地を砲撃して兵の攻撃を支援。この日以降、丘の西側で激戦が展開された。
兵器に優れた政府軍は、薩軍陣地を占領するが、薩軍は日没から夜にかけて抜刀切り込みを行って奪われた陣地を取り戻すという一進一退の展開が続いた。
3月13日、薩軍の抜刀切り込みに手を焼く政府軍は、警視庁抜刀隊を編成して対抗、次第に政府軍が優勢になっていった。
3月15日、横平山での激戦を制した政府軍は立花木付近に進出し、薩軍の補給路である植木街道付近に迫り、分断するほどになった。
3月20日、夜中から続いた大雨の後、政府軍は午前5時には濃い霧の中を音を立てずに薩軍陣地に近づき、午前6時、号砲を合図に総攻撃を開始。わずか4時間で柿木台場を占領した政府軍は田原坂本道を防御する薩軍本隊の背後から攻撃を仕掛けたため薩軍は敗走、田原坂は政府軍の手に落ちることとなった。
田原坂は政府軍・薩軍両軍にとって多くの犠牲者を出した西南戦争最大の激戦地である。田原坂での政府軍の戦死者は1日に100名にも上り、政府軍戦没者の25%が田原坂の地で戦死している。
政府軍には、兵士に洋服の軍服が支給され、主な銃器は手元で銃弾が装填できるスナイドル銃であったが、薩軍は木綿の着物姿にわらじの恰好をした者が多く、銃はスナイドル銃やスペンサー銃(いずれも元込め銃)の他、旧式のエンフィールド銃(先込め式)も使用し、大砲の数も少なかった。
17日間続いた田原坂の戦いでは雨の日が多く、服装や装備の違いで政府軍に優位であった。薩軍が「一に雨、二に大砲、三に赤帽(政府軍の近衛兵)」は苦手であると嘆いたエピソードが残っている。
田原坂は陥落したが、その後も吉次峠、木留などの薩軍陣地はもちこたえ、植木では南北に分かれて市街戦を展開し、植木・木留の戦いは一か月以上にも及んだ。しかし、ついに4月15日には政府軍は熊本城へ至ることとなった。こうして熊本城及び植木方面から撤退した薩軍は以後、人吉、宮崎、鹿児島へと敗走を続けて行くことになる。
(旧植木町産業振興課作成資料、前掲「西南戦争ガイドブック」より)